


下ノ町の入り口、街道の山手に小さな石碑があります。今から270年程前、貧しい暮らしの与七とその妻は、自分たちは貧しいものを食べても、父母には、御馳走を食べさせて孝行のかぎりを尽くしました。時の小浜藩主は、与七の行いを聞くに及んで、米数俵を与えて、その志をほめたことが「若州良民伝」にも出ています。時に、亨保6年(1721)のことなり、とあります。この碑は、明治45年に村の有志が建てたものです。 |
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下ノ町から山の中腹まで登ったところに西山稲荷神社があります。伏見のお稲荷さんを勧請したといわれ、創建は江戸時代中期頃まではさかのぼれると言われています。商売繁盛の神様として厚い信仰を受け、春と秋のお祭りのなか、特に秋には「おひたき」という行事が行われています。 |
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熊川の中ノ町の南側には松木神社があります。これは、若狭の義民松木庄左衛門が祀られている神社です。この神社は、昭和8年に建てられたもので、境内には昭和10年に庄左衛門の遺徳を顕彰するために建てられた義民館があります。石柱の「松木神社」の文字は、頭山満の書であります。また、不思議な因縁がありますが、ここ松木神社境内は、元小浜藩の米蔵のあったところです。蔵12棟を建て年貢米3万俵を収納していたということです。 |
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伊藤竹之助翁(伊藤忠商事二代目社長)の生家で、熊川を代表する町家の一つということで、主家、土蔵、庭が、平成7年1月に、町指定の文化財となりました。その後、平成7~9年の3カ年をかけて、吉田桂二先生の設計により修理が行われ、熊川の新しく快適な住居のあり様を提示すべくモデルハウスとして、またゲストハウスとして生まれ変わりました。 |
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熊川地区の氏神であり、往古、伊勢より勧請すといわれ、また若狭の乎入谷(遠敷谷)より勧請すとも記されていました。旧指定村社で、祭神は、彦火々出見尊、白髭明神、小浜藩主酒井忠勝公、山の神が合祀されているということです。 |
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熊川の逸見勘兵衛家出身で、伊藤忠商事二代目社長となった伊藤竹之助翁(旧姓逸見)が、昭和15年に熊川村役場として建てた建物です。熊川の歴史の厚みを感じさせてくれる建物で、熊川宿と |
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この上ノ町の大きな岩ではよく子どもたちが遊びますが、けがをしたことがないそうです。 |
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上ノ町の上側にある、熊川では権現さんと称される社です。 昔、上ノ町では、道の表面に白い石が出ると、村に火災や水害が起きたことがありました。そこで、村人が相談してお社を建てて、 その白い石をお祀りすることになったのが、この神社のいわれであるとされています。 鳥居額には、「火防・水雨神社」と銘があり、この神社の性格を表しているようです。 |
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元亀元年(1570年)に、織田信長は秀吉と家康をも従え、越前朝倉義景を攻めるため、京都から熊川を通り 敦賀へ向かいました。 このとき徳川家康は得法寺に泊まったといわれ、このとき境内の松に腰をかけたのが、 今も束の隅に残る松の木であるとされており、「家康の腰かけの待つ」と呼ばれています。 |
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