熊川宿 沼田氏ゆかりの地
明智光秀の盟友 細川幽斎が生涯愛した正室、沼田麝香の生まれた地

【細川藤孝室(沼田氏・光寿院)
東京大学史料編纂所所蔵模写】
細川藤孝(幽斎)の正室麝香は、幕府奉公衆であった若狭熊川城主沼田光兼の娘として生まれました。麝香の父光兼は、将軍足利義晴の命令で、藤孝が幼少のころからその後見役を務めており、その関係から二人は結ばれたと言われています。嫡子忠興の正室である明智光秀の娘玉(ガラシャ)の影響を受け、麝香は後に洗礼を受けマリアと名乗っています。慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いの最中、藤孝が守る田辺城が、石田三成の軍勢に責められた際、具足を身にまとい城内を夜回りし、士気を鼓舞したこと。また紅と白粉で敵の陣形を描き作戦を立てたというエピソードが伝わっています。これらのことから、麝香は度量が広く、気丈な女性であったことが想像されます。麝香は元和4年(1618)、江戸で75年の生涯を閉じました。

【人物相関図】
沼田氏の供養塔(得法寺)

【沼田氏供養塔】
得法寺境内の墓地には、細川藤孝(幽斎)の妻麝香の出自である熊川城主沼田氏のものと伝わる供養塔が建てられています。また、越前朝倉攻めの際、得法寺に宿泊した家康が腰かけたとされる松の跡が残っています。
熊川城跡(主郭)

【熊川城跡縄張り図】
若狭と近江の国境、西山嶽から北東に延びる標高185mの稜線上にある山城で、足利将軍の側近として活躍した沼田氏が築きました。麓の白石神社は城郭の一部と考えられています。永禄8年(1565)、三好・松永の軍勢が将軍義輝を襲った際、熊川城も攻撃を受けています。

【主郭】
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更新日:2022年03月31日