熊川宿 歴史

更新日:2022年03月31日

古い長屋が並ぶ道を自転車に乗った男性が走っていく茶色くレトロ風の写真(写真提供/逸見啓市氏)

大陸文化の受け入れ口のひとつであった若狭地方。 宿場町の面影を残す熊川の町並み。 まちを通る若狭街道(鯖街道)は、日本海と畿内を結んでいた。 この道を、多くの人や物、そして文化が行き交った。 道を歩けば出会いがある。 この道を、今一度、歩いてみよう。

鯖街道

鯖街道と書かれた小浜から京都への道を赤く記した地図の画像

古代、若狭は、朝廷に食料を献上する御食国(みけつくに)のひとつでした。日本海で獲れた魚や貝が遠路はるばる京都へ運ばれ、いつの頃からか若狭人のあいだでは「京は遠ても十八里」などと豪気なことが言われて来ました。18世紀後半から大量の鯖が若狭から京へと運ばれました。若狭街道が、鯖の道・鯖街道と呼ばれた由来です。御食国若狭と鯖街道は日本遺産第1号に認定されています。

鯖街道の名前の由来

大きな木と青い空、古い長屋が並ぶ街道を写した写真

古代より、若狭の海産物が都に運ばれていました。そして、いつの頃からか、「京は遠ても十八里」と言われるようにもなり、特に18世紀後半からたくさんの鯖が若狭の海で陸揚げされ、「鯖の道」、そして「鯖街道」と称されるようになったのです。与謝蕪村も鯖を背負い都に入る若狭の人々が目に止まったのか「夏山や 通ひなれたる 若狭人」と詠んでいます。

熊川宿の誕生

オレンジ色の道を中央に左右に家屋が並び、奥に青青とした山が写っている写真

秀吉に重用され若狭の領主となった浅野長政は、天正17年(1589)に熊川が交通と軍事において重要な場所であることから、諸役免除して宿場町としました。以来40戸ほどの寒村が200戸を超えるような町となったわけです。

町の構成

小浜から京への若狭街道の約1.1キロメートルの両側に、平入と妻入の町家が混じって建ち並びます。

 下ノ町(しもんちょう)と中ノ町(なかんちょう)の間には「まがり」という折れ曲がるところがあります。

 中ノ町には町奉行所、蔵奉行所、問屋や社寺があり、町の中心的役割を果たしました。

 下ノ町と上ノ町(かみんちょう)は、茶店、背負、巡礼宿などが多くありました。

 下ノ町には、西山稲荷神社や孝子与七の碑があります。

 また、上ノ町の端には関所(口留番所)が設けられ、近くには火災水害に霊顕のあった権現神社も祀られています。

屋根が入口側へ傾いている家屋と、屋根が左右に傾き、その正面に入口がある家屋が並んでいる様子の写真

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