熊川宿 歴史
大陸文化の受け入れ口のひとつであった若狭地方。 宿場町の面影を残す熊川の町並み。 まちを通る若狭街道(鯖街道)は、日本海と畿内を結んでいた。 この道を、多くの人や物、そして文化が行き交った。 道を歩けば出会いがある。 この道を、今一度、歩いてみよう。
鯖街道
古代、若狭は、朝廷に食料を献上する御食国(みけつくに)のひとつでした。日本海で獲れた魚や貝が遠路はるばる京都へ運ばれ、いつの頃からか若狭人のあいだでは「京は遠ても十八里」などと豪気なことが言われて来ました。18世紀後半から大量の鯖が若狭から京へと運ばれました。若狭街道が、鯖の道・鯖街道と呼ばれた由来です。御食国若狭と鯖街道は日本遺産第1号に認定されています。
鯖街道の名前の由来
古代より、若狭の海産物が都に運ばれていました。そして、いつの頃からか、「京は遠ても十八里」と言われるようにもなり、特に18世紀後半からたくさんの鯖が若狭の海で陸揚げされ、「鯖の道」、そして「鯖街道」と称されるようになったのです。与謝蕪村も鯖を背負い都に入る若狭の人々が目に止まったのか「夏山や 通ひなれたる 若狭人」と詠んでいます。
熊川宿の誕生
秀吉に重用され若狭の領主となった浅野長政は、天正17年(1589)に熊川が交通と軍事において重要な場所であることから、諸役免除して宿場町としました。以来40戸ほどの寒村が200戸を超えるような町となったわけです。
町の構成
小浜から京への若狭街道の約1.1キロメートルの両側に、平入と妻入の町家が混じって建ち並びます。
下ノ町(しもんちょう)と中ノ町(なかんちょう)の間には「まがり」という折れ曲がるところがあります。
中ノ町には町奉行所、蔵奉行所、問屋や社寺があり、町の中心的役割を果たしました。
下ノ町と上ノ町(かみんちょう)は、茶店、背負、巡礼宿などが多くありました。
下ノ町には、西山稲荷神社や孝子与七の碑があります。
また、上ノ町の端には関所(口留番所)が設けられ、近くには火災水害に霊顕のあった権現神社も祀られています。
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更新日:2022年03月31日